文字サイズ 標準拡大

ホウネット通信

書庫の中に貴重な資料が・大失敗

2008年2月6日

書庫の中に貴重な資料が・大失敗

ホウネットにお世話になっていて、面白いのはニュースの載ってくる弁護士の事件報告である。私も裁判所には長いつきあいがある。懐古趣味ではないが、面白い想い出があるので残しておきたい。
いまから40年ほど前、中部電力人権争議を準備していた頃の話しである。私はいきなり現場から本店勤務に放り出された。理由は火力発電所で労働運動に一生懸命だったからである。
うかつにも私は、電力の職場がレッドパージで2千人を超える犠牲者を出していたことを知らなかった。電気産業働組合が戦後の輝く伝統を持った労働組合で あり、資本のきびしい弾圧を受けて、壊滅に追い込まれたことすら知らずに、1957年入社していた。電力会社は大規模開発を急ぎ、火力発電所の建設現場 は、劣悪な労働環境だった。名古屋港の中央にあった9号地は1959年伊勢湾台風に襲われ、大きな被害を受けた。発電所の建設はさらに遅れた。すべてのし わ寄せが労働者に負わされた。
労働組合が果たす役割は大きかった。9号地は石油基地として建設され、全域火気禁止地域で一軒の食堂も許可されていなかった。日曜日に出勤する労働者の 昼食をどう確保するか、独身者の弁当箱を会社に買わせるために交渉した。夜勤勤務者が昼寝るために、相部屋ではなく個室を要求した。さらに、部屋のカーテ ンを暗幕にしろと要求し交渉した。年配の労働者は新しい技術に付いていけず、技術の習得に時間がかかった。ところが企業は、ふくらんだ労働者の数の削減を 計画した。労働者の声と正面からぶつかった。
1966年私はいきなり現場から放り出された。残された組合の三役や執行委員は厳しい弾圧を受けた。
不当労働行為から、アカ攻撃になって、さらに陰湿な人権侵害に続くのである。思想差別、人権侵害の撤廃を求めて集団訴訟になり、全面勝利まで23年間続いた。

私が本店に赴任した時、机もポストも準備されていなかった。嫌がらせでやめさせる作戦だと自覚した。負けるわけにはいかない、周りの人たちの雑用を手 伝った。ある日昼休みの時間に、書庫で休憩しようと横になっていたら、いろんな書類が箱につめられていることに気がついた。
何が入っているかとのぞくと、年度の業務計画だとか実施報告書などだった。ペラペラとまくっていくと、なんとなんと労働組合の健全化計画として、御用組 合を育てる準備や予算が出ているではないか。全労会議(総評を脱退した右派労働運動・のちに総同盟)時代の労働運動でさえ邪魔になって、
無権利の労働者をつくる計画と、どこまで進んだと報告していたのであった。
差別や人権侵害の数々が、計画的に取り組まれていたのである。裁判でいえば差別意思の立証が、はっきりしたのであった。被告会社は、はじめは企業の社会 的責任として、送電線鉄塔のボルトを外すような従業員はいらない(当時四国かどこかでそんな事件があった)と主張したが、どうも分が悪くなって、今度はウ ソの理由をつくりあげ、原告は成績が悪いから賃金が低く、昇進がおそいと主張を変えてきた。
マル秘の文書もぞくぞく集まってきた。誰と誰をどのように弾圧していくか、体系図である。
社会に訴えるため、訴訟が準備された。助走期間は長かったがとにかく原告団90人が団結した。
岐阜や三重、静岡、長野と中部地方の各地に闘う仲間が広がった。
昨年争議解決10周年を祝った。病気で出席できない方や不幸にして亡くなった方もあったが、長期に争議をたたかった仲間には、いろんなとっておきの話しがあると思う。わたしの未発表の話しは、これである。
たくさんのマル秘の付いた文書が出てきて、驚いた私は持ち出すことを考えた。しかし、差別や弾圧をうけていて、企業を相手に裁判を構えても、労働者の悲 しさなのか、企業に忠誠義務がある。持ち出さずにコピーを考える。つぎに部長や課長の印鑑がたくさん付いているのをコピーすれば、その人に迷惑がかかると 考えてしまう。労務担当は憎いが技術の課長に恨みはない。マル秘文書の表紙から印鑑部分をのぞいてコピーした。持ちだしたものもハサミで切り抜いておい た。
のちほど弁護士から、印鑑があればもっと攻めやすかったと教えられたが、あとの祭りである。
大失敗だが、はじめから争議に強い労働者など存在するはずはない。

(ホウネット運営委員・にしのひろし)

このページの先頭へ