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事務所だより

やるじゃないか!最高裁−−国籍法の婚外子差別違憲判決に何を見るか 豆電球No.59

2008年6月16日

やるじゃないか!最高裁−−国籍法の婚外子差別違憲判決に何を見るか

この事件は、結婚していない日本人の父とフィリピン人の母か ら生まれ、出生後に父に認知された子供たちが日本国籍を取得できないのは、法の下の平 等を定めて憲法に違反するとして国を訴えた事件である。大法廷は、原告の主張を認め、二審判決を破棄し、原告全員の日本国籍を認めた。
画期的な判決だと思う。
私がこの判決を評価するのは、二つの文脈においてである。
一つは、外国人の権利の尊重という文脈である。今や日本の在住外国人は200万人を超える。その中には定住する可能性が大きい外国人が多いと言われてい る。特に定住外国人(在日がその典型だ)の間には、税金を納めても参政権は与えられず、様々な軋轢、差別意識のもとで、自分はいったい社会の成員として認 められているのか、不安を抱き続けている。
相当の外国人の人口を持ちながら、国家としてこれを認知し、彼らの権利向上、地位実現のための政策的努力を払わない国、日本。国籍法が、時代の変化についていけなかったのも、その反映ではないだろうか。
考えてみると、最高裁は、外国人の事件については、相当リベラルに立場を維持している(関係ないが、最高裁は、サラ金、高利貸しにも厳しい。消費者金融 に関する昨今の一連の最高裁判決は大いに評価されてしかるべきだ)。例えば、1995年の最高裁判決。在日韓国人の金正圭氏が選挙管理委員会を被告として 自分が有権者名簿に登載されていないことを理由として選挙無効の裁判を起こした。最高裁は、その訴えを認めなかったが、「外国人のうち、永住者など地方自 治体のなかに定住生活を営んでいる者に法律により自治体の首長や議員を選ぶ権利を認めることは憲法に違反しない」という判断を示したのである。今でこそ永 田町でも定住外国人の地方参政権を認める動きが出ているが、当時はそういう状況でもなかった。
今回の判決は、外国人と日本人の間に生まれた子の国籍取得の権利に関するものであるが、厚生労働省の統計では、日本で生まれた子供の婚外子のうち、母が 外国人で父が日本人の子供は87年には約5000人だったが06年には三倍近い約14000人に増えているという。国籍は、その人の生活と権利に大きな影 響を及ぼすものであり、親の状況に関わりなく子供は平等に取り扱われるべきだという判決は、法の下の平等を正しく理解し、時代環境の変化を踏まえた正しい 判決だと思う。
もう人の文脈は、婚外子の差別について、である。
周知のように、最高裁は、婚外子の法定相続分に関する民法の規定(婚外子は嫡出子の相続分の二分の一とする)について合憲判決を出している。今回、国籍 について、婚外子の両親が結婚しているか否かによって差別することに合理的な理由がないとしたものだが、相続権についても同様ではないだろうか。両親が婚 姻しているか否かに関わりなく、一人の人間として平等に扱われるべきであるという理念を貫徹するなら、相続に関する婚外子差別規定の合憲性についても最高 裁は踏み込むべきだ。

それにしても、今回の違憲判決を報じた新聞記事の写真を御覧になっただろうか。最高裁の敷地の中を、勝訴判決を受けた6人の女の子が横に並んで笑顔で走ってくる姿が写っている。なかなかいい写真だと思った。

最高裁について、一つのパターン化した認識というか、色眼鏡で見る傾向が一部にある。
特に70年を前後とする時代、司法の反動化ということが随分、叫ばれた。青年法律家協会に所属する司法修習生の任官拒否、公務員労働者の労働基本権や政治活動の自由に関する一連の流れなど、まさに最高裁は「反動の牙城」と呼ばれにふさわしい動きを強めていた。
しかし、司法制度改革の流れか強まる90年代半ば以降、その姿勢に変化が見られる。
余り知られていないが、最近、高裁判決を破棄する最高裁判決が相次いでいる。破棄された判決の傾向について、判例時報で裁判官懇話会(青年法律家協会の 会員に対する圧迫が強まった後、一部の良心的な裁判官が作った団体である)の座談会等が掲載されているが、形式的な論理ではなく、紛争の適正妥当な解決を 考慮し、実質的な正義、衡平を実現する立場からの原判決破棄が目立つと言われている。少し前になるが、最高裁は、電通の過労死裁判で、苛酷な長時間労働で 亡くなった労働者に対する企業の安全配慮義務違反を認めた。
意外かもしれないが、最高裁は、地裁、高裁に比べて国民参加が進んでいるという側面がある。今の最高裁裁判官の構成は、職業裁判官出身者は6名、検察官 出身者は2名、行政官出身者が2名であるのに対し、弁護士出身者4名、学者出身が一名を占めている。今回の違憲判決でも弁護士出身者は全員、違憲判断に賛 成した。
司法が市民社会との間に懸隔があると指摘されて久しい。市民に納得しがたいような判決、遅すぎる裁判、冤罪の多発等。こうした司法の現状を正す一つの鍵が、官僚司法の打破と裁判への国民参加にあることを、今回の最高裁違憲判決は示しているのではないだろうか。

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