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事務所だより

厚生年金脱退手当金99円支給決定と日韓関係を考える(3) 豆電球№123

2011年7月7日

たいていの裁判闘争というのは、最高裁で敗訴が確定すれば、事実上は収束に向かう。
しかし、この運動は、収束どころかたたかいの第2幕が始まる。

名古屋三菱女史勤労挺身隊訴訟を支援する会は、敗訴判決後も金曜行動、株主総会への要請行動等を継続した。
金曜行動は、毎月1回三菱本社門前で行う街頭宣伝である(既に120回以上にのぼっている)。株主総会行動は、総会会場(品川プリンスホテルが多い)会場前で株主らに対する宣伝行動を行い、連携した株主が総会で解決に向けた努力を要請する発言を繰り返す。
こうした運動を粘り強く続けながら、解決の糸口を見つけようとしていた時、99円問題が発生した。

原告らは、98年、熱田区の社会保険事務所に出向き、自分の年金記録の閲覧を申請した。原告らは、前記の通り1944年から1945年にかけて働いていたから、当然、年金記録があると考えたのである。
社会保険事務所は、それなりに努力してくれた。しばらくして一部の年金記録はみつかったが、三菱重工業に勤務記録は残されておらず、支給されていた筈の賃金額が不明であるため、脱退手当金の計算ができないということであった。また、一部の就労期間の記録は見つからなかった。
その後も、小出さんらが粘り強く社会保険庁との折衝を続けていた。

そうした中で、前記の通り確定判決の中で原告らの就労の経緯が裁判所によって事実認定された。
社会保険庁は、最高裁判決後、脱退手当金の支給に向けて調査を行い、2009年11月17日、原告ら7名の脱退手当金決定通知書を原告代理人弁護士に送付した。

その金額が、99円であったのである。
同金額は、昭和20年当時の原告らの月額報酬を200円と認定し(賃金表では最高額)、これに基づき99円と算定したのである。

私も含め弁護士たちも同金額には驚いたが、これが、ここまで韓国内の世論の憤激を呼ぶことになるとは、率直に言って予想していなかった。支給決定後、韓国内メディアがいっせいに報道、新聞も一面トップで取り上げ、市民団体が立ち上がり抗議行動が始まった。
その動きは、政治も動かし、韓国の柳外相が日本政府に善処を要求すると言明し、国会質問でも取り上げられることになった。

韓国内の大衆運動は強制労働に従事させた三菱重工業にも向けられた。
最高裁判決後も続く日本国内での運動に加え、韓国内の三菱に対する批判の高まり、韓国政界の動向を見た三菱重工業は、ついに2010年7月、それまでの「判決によって決着済み」という態度を変更し、原告団、弁護団に対し、「解決のための交渉の場を持つ」ことを提案し、ついに原告団等と三菱重工業との間の交渉の場がもたれることになった(現在も交渉が継続しているが、交渉の経緯は公表できない)。

これと並行して、原告団は、社会保険審査官に対し異議を申し立て、同異議が却下されたため、社会保険審査会に再審査を請求し、その公開審理が6月23日に行われたのである。

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