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事務所だより

大橋満男さんのこと 豆電球No.12

2006年3月27日

大橋満男さんのこと

昨年、終了したNHKの「プロジェクトX」は、中年世代を中心に大きな反響と支持を受け、中島みゆきが歌う「地上の星」も大ヒットしたことは記憶に新しい。プロジェクトXは、主に日本の技術開発・先端技術、土木建築、ヒット商品の開発・製造等、どちらかといえば「理科系」に属する人たちが取り上げられていた。しかし、日本の様々な社会運動、国民の人権と民主主義という分野でも、様々な業績を残した人々は沢山いる。目立たないが一隅を照らして頑張っている人たちも大勢いる。それは、実は、私たちの身近にもいるのである。

今日、紹介する大橋満男さん(愛知県小牧市在住)も、そんな一人である。

大橋さんは、日中友好協会愛知県本部の事務局長を長年務められ、今春、現役を退いた。3月18日に名古屋市栄の中華料理店で大橋さんの「ご苦労さん会」が行われ、私も参加させていただいた。

大橋さんは、1930年5月15日に新潟県柏崎市で生まれ、生後間もなく満鉄社員であった父の勤務する満州の撫順に渡り、西安の国民学校、中学校を卒業 し、そこで敗戦を迎える。敗戦の混乱、日本人による復讐と襲撃事件が広がる中、父と生き別れとなり(父は消息不明のまま死亡扱いされている)、引き上げの機会を失い、結局、1953年までの8年間、遼源炭坑で働くことになった。

大橋さんは1953年に帰国した後、1954年に日中友好協会名古屋支部結成に参加し、1955年から日中友好協会の専従事務局員に就任し、以来引退する昨年まで、実に50年間、日中友好のために献身した。「ご苦労さん会」には、中国の領事、この会のために大連からやってきたという中国人等をはじめ、各界の様々な人々が参加していた。

大橋さんが活動した50年間の日中友好運動の曲折は、知る人ぞ知るところである。在野の日中友好運動は60年代半ばまでは活発に行われていたが、これが暗転するのは文化大革命の時代である。

文化大革命は、毛沢東ら中国の一部指導部が仕掛けた政治闘争であり、その過程で、多くの良心的な中国人が、毛沢東の意向を受けた「紅衛兵」等から攻撃を受 け、「走資派」等とレッテルを貼られ、街頭に引き出され、糾弾を受けた。その中には、中国の最高指導者であった劉少奇も含まれていた。

文化大革命の被害を受けたのは、こうした中国の人々だけではない。日中友好運動も大変な打撃を受ける。

当時の中国指導部は、中国革命の成功を教条化し、日本等の進んだ国々でも暴力革命路線を採用すべきだと主張、自主独立の立場からこれを厳しく批判した日本 共産党に対する苛烈な批判を展開するとともに、毛沢東路線を支持しない日中友好協会に対しても厳しい攻撃を加えるようになる。大橋さんも、1967年には人民日報や北京日本語放送により、「反中国・反毛沢東分子」等と名指しで非難を受けた。その後、日中友好運動は、30数年間、極めて困難な時期を過ごすこ とになる。

大橋さんは、その間、いわば「相手がいない」という困難な状態の中で、日中友好運動の松明を掲げ続けてきた。大橋さんは、中国政治事情の講座、「文化大革命」研究会、中国語や太極拳、漢方等の中国文化を紹介する活動を続けた。毎年7月7日には、日中戦争勃発を記念した日中不再戦の行動を続けた。また、たび たび、中国への「平和の旅」を組織した。

大橋さんが大変苦労されたのは、財政問題であるという。組織の運営資金、活動資金を捻出するため、県下で開かれる様々な集会の会場で、ラーメン屋台を引いている大橋さん、天津甘栗を炒って売っている大橋さんの姿があった。私も何度か甘栗を買わせていただいたが、その苦労は並大抵のものではなかったろうと思 う。

1999年、中国共産党は、過去の文化大革命時代の時代の日本共産党への攻撃、介入の間違いを認め、日中友好協会の運動も新たな時代を迎えた。大橋さんの 「ご苦労さん会」に中国の領事も参加していることは、正常化の一つの証であるのかもしれない。それを見届け、大橋さんは静かに身を引かれた。

32年間のこの困難な時代を頑張り続けた大橋さんの不屈さは素晴らしい。しかし、それ以上に私が大橋さんに惹かれるのは、その楽天性とユーモアであった。

大橋さんは、いつも「金がない」ことを冗談交じりに話をされていたが、その生活は楽であった筈はない。それでも、大橋さんの話には、いつも笑いがあった。

それは、きっと未来への展望で心が満たされていたからに違いない。

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