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事務所だより

日本国憲法の制定過程ー古関彰一さんの講演から1 豆電球No.36

2007年10月24日

日本国憲法の制定過程ー古関彰一さんの講演から1

昨日、愛知県弁護士会主催の憲法学習会「憲法9条の制定過程」(講師 古関彰一獨協大学教授)が行われ、大いに勉強になったので、その話をさせていただく。
古関彰一さんは、日本国憲法の制定過程を専門的に研究している方であり、昨年放映され大反響を呼んだNHK特集番組「焼け跡から生まれた日本国憲法」でコメンテイターを務めた方であり、ご存じの方も多いと思う。
古関さんの講演内容はポイントは次の通り(多少長くなる)。

(1)憲法研究会(45年10月29日〜同年末)
日本国憲法の制定に先立ち、鈴木安蔵、高野岩三郎らが中心となった憲法問題研究会が10月29日に結成された。同研究会は、「左翼」的な人物だけでなく、様々な思想傾向を持つ人々で構成され ていた。
同研究会が12月26日に憲法改正案を公表し、政府、GHQに提出したが、その中で「天皇は国家的儀礼を司る」という項目があり、天皇主権を改める方向性が示された。
GHQは、同憲法研究会の案を評価していた。民政局のラウエル(弁護士資格あり)が翻訳、分析して、報告書を提出している。
後年、ラウエルは、インタビューに答え、「憲法研究会の案は役に立った」と答えている。
但し、同研究会の改正案は、朝日、毎日は一面で報じたものの、政界、学会等では無視された。
GHQは、同研究会案を評価し参考にしていたが、当時、同案を肯定的に評価する姿勢を表明したことが一度もない。これは、マッカーサーが、間接統治を採用し、あくまで日本政府に憲法改正を主導させたかったことによるものであり、マッカーサーは日本政府に期待していた。

(2)政府の憲法問題調査委員会
政府は、10月25日、憲法問題調査委員会を設置した(委員長松本蒸治国務相)。改正委員会ではなく、「憲法問題」を「調査」することを目的としてい た。当時、戦前のリベラルと言われた学者達、美濃部達吉、宮沢俊義らは、「大日本国憲法が悪い訳ではなく、その運用が悪かった」という改正不要論に立って いた。
(日本の指導層、エリート集団は、国民主権、個人の尊厳と基本的人権の尊重といった普遍的憲法原理を理解していなかったようだー私見)
46年2月1日、同調査委員会が作成した改正案の一つが、「試案」として毎日新聞にスクープされた。「試案」は、「天皇は統治権の総覧者」と規定、天皇大権を存置して多少制限を加えるという程度であり、人権制限を少々緩和するというものだった。

(3)GHQ憲法草案作成
マッカーサーは、日本政府に近代憲法を起草する能力なしと判断、、民政局のホイットニー、ケーデイスら法曹資格を持つ者でチームを編成して新憲法の条文化を指示。
その際、マッカーサー三原則(天皇は国の最上位、戦争の放棄、封建条項の廃止)を示した。
民政局では、4日から10日の一週間で新憲法草案を秘密裏に作成し、2月13日日本政府に手交した。

(4)憲法9条の発案者
憲法9条がマッカーサーの発案なのか、1月24日の幣原・マッカーサー会談で幣原が言い出したのか、議論がある。マッカーサーやケーディスは、日本側の 発案ということを戦後、述べており、選良報告書にもその旨の記載があるが、実際はどうか。私は(古関さんは)マッカーサーが発案したものであろうと考えて いる。13日に憲法草案が吉田外相、松本国務相に示されたが、戦争放棄条項が含まれていることを知った幣原が大変驚いたという歴史資料がある。

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