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事務所だより

灼熱のタイで国家を考える 豆電球No.53

2008年4月4日

灼熱のタイで国家を考える

正味三日間、観光旅行に行っただけだが、タイという国に実に魅力を感じ、いろいろ考えさせられた。全く異なる気候、風土、伝統、社会システムや政 治体制に触れることは、知的好奇心を呼び起こすものである。旅行前に「予習」のため読んでいた、タイの高校生向け歴史教科書の邦訳版(明石書店。以下、こ の本を教科書と略称する)等から学んだことも含め、少し述べてみたい。
教科書が仏暦で年号表示がされていることに、まずびっくりした。スコータイ王朝に始まるタイ王朝の歴史が書かれているが、驚いたのは、仏暦2432年 (西暦は543を引き計算することになる)に奴隷制が廃止されたが、それまで奴隷制がしっかり存在していたことである。解放された奴隷が、資本主義システ ムに不可欠な賃金労働者の供給源になる。
教科書によれば、タイでは、幾つかの村落(ムラ)の集合体であるムアンと呼ばれる共同体(良く理解できなかったが、一種の血縁集団の集まりであり、部族社会的な要素と地縁共同体の要素もあるようだ)が仏暦16世紀までの基本的な社会システムであったという。
仏暦17世紀になって、ムアンの結合体としてのスコータイなどの王国が誕生する。王国(領国)は、皇帝あるいは神の生まれ替わりとしての王、一定の官僚 機構と軍事機構を持つものであり、明らかに古代国家としての性格を持つものだが、その後も現代にいたるまで、ムアンがその末端の社会単位として存続してい るという。
私の関心は、このムアンあるいはその基礎をなす村落共同体は、マルクスが関心を寄せていたアジア的共同体、原始共同体社会なのか、ということである。アジア的な総体的奴隷制国家といわれるものは、共同体をまるこど支配下、隷属下に置く階級社会である。
教科書には、伝統社会時代の村落、ムアンの土地の所有形態についての記述がないが、おそらく土地所有権という概念自体がなかったのだろう(タイは国土面積、平野面積が広く、土地はいくらでもある。農業も極めて粗放的である)。教科書の記述をいくつか引用してみよう。
「ムラ社会では人間関係が親族関係と切り離せない」「結ということばでも知れるように、みなで生活を支え合い、田を耕したり、収穫したりした。ともに雨 乞いの儀式を執り行い、自然災害からムラを守ろうとした。強盗が侵入すれば皆が武器を持って協力しあい、事件が起これば住民はこぞって加害者を罰し、制裁 を加えた」。
ムラはどうやら原始共同体としての性格を強く帯びていたようだが、やがて、年齢が重視され、一定の役割分担が起こり、生活条件や個々人の権利が次第に不 平等になっていく。しかし、依然として秩序は厳格なものではなかったらしい。これを見ると、ムラは、原始共同体としての性格を帯びながら、私有財産制度の 発展等による階層分化が起こったのだろう。
ムアンについて、教科書は次のように述べる。
「(ムアンになると)社会的役割分担は明確で、重要性に差があった。特に、社会を災害や危険から守る統治者の責務は、他の人びとより重く、より高い社会 的地位と権力を伴った。それゆえに、社会の内部には格差が生じた。社会の上層に位置する人々は、王族や貴族になり(以下略)」。ムアンにおいては、階級的 差別が明確であり、統治機能の人民からの分離は、さらに明確になっていったようだ。
アユタヤ時代(西暦14世紀頃から18世紀頃まで約400年続いた)になると、「人ごとの役割や権利を明確に分ける原則があったことがわかっている」 「人々は皆、出自と義務に応じた位階田というものを持ち、人々を秩序づけた。位階田法は、王・貴族・僧侶等の支配階級と、平民・奴隷という被支配階級の二 つの階級に社会を大きく分割した」「平民は人口の大部分、80%から90%を占めた(平民は税を納め賦役労働を課せられ、戦時の兵力になった)」「奴隷 は、多くが借金のかたに自分自身や妻子を売って奴隷となった。戦争捕虜もあった」
このようなムアンの上に、いくつかの領国が並び立つようになり、その一部がスコータイ王朝、アユタヤ王朝等の王国とよばれる国家を形成し、社会の内部での身分制が次第に確立していったことがわかる。

アジアでは、いわゆる総体的奴隷制といわれるような社会形態、すなわち共同社会を丸ごと隷属下に置き、貢納関係において支配する専制的な階級社会が多く 見られるが、タイもその例に漏れないようだ。奴隷制的な性格を帯びた封建社会が20世紀初頭までタイに残存していたことは興味深い。

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