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事務所だより

西野喜一「裁判員制度の正体を読む」5 豆電球No.55

2008年5月22日

西野喜一「裁判員制度の正体を読む」5

この連載記事も少し間隔が空いてしまったが、その間、裁判員制度の導入についてのマスコミ 報道の分量が増加し、国民の間での論議が一層活発になっ た。今の高齢者医療制度も同様であるが、どんな制度改革でも、いざ、実施という段階になり、自分の身に降りかかってくる段になって、ようやく幅広い国民に 問題意識が広まっていくということは、やむを得ないことかもしれない。
それにしても後期高齢者医療制度とはひどい制度を考えついたものだと思う。自民党の堀内元総務会長は、自分のところに届いた年金通知で天引きされること を知り、びっくりして「姥捨て山だ」と怒ったという新聞記事があったが、私が驚いたのは、この前まで自民党の総務会長だった人が、通知が来て制度の問題点 に気が付いたという点である。総務会と言えば、法案に対する党内の意見集約の要であり、その責任者がこの体たらくでは、情けないではないか。国会の立法機 能の形骸化が言われて久しいが、このエピソードは、わか国が依然として官僚国家としての対質から脱却できていないことを示すものだ。

閑話 休題。マスコミでの議論の沸騰を見ていると、「裁判員なんかやりたくなーい」という国民が多いことを表面的に取り上げた記事もあるが、真面目に制度 の是非や問題点を議論していると思う。「素人が正しい判断が出来るのか」「死刑判決は人の命を奪うことになる。自分は人の生死を左右することに耐えられな い」等、様々な議論が巻き起こっている印象である。
実は、刑事裁判について、こうした国民的な論議が巻き起こるところにこそ(刑事裁判について、過去にこれほど国民の間で議論が高まったことはない。おそ らく来年にかけてますます論議は広がるだろう)、裁判員制度の目指す理念、「司法の国民的基盤の強化」ー市民から疎遠な司法、官僚的な司法から、主権者で ある国民に理解され指示される司法、国民の間に根を張った司法をめざすという、その理念が生きてきているのである。「裁判員制度にはいろいろ問題があるが とにかくやってみよまい」という立場に立つ者から見れば、しめしめというところなのである。
素人で正しい事実認定ができるかー大いに議論していただきたいと思う。それは、職業裁判官の判断はつねに正しいのか、正しい事実認定とは何か、というこ とを具体的に考えることにつながる。「それでも僕はやっていない」の周防監督が伝えたかった問題意識が国民の間に広がるかもしれない。
「素人が参加すると量刑がバラバラになり、不公平だ」ーこれも有意義な議論である。裁判官の間でも、実刑か執行猶予か判断が分かれる事件は幾らでもあ る。裁判所は、裁判員制度導入に備え、量刑データベースを作り始め、徐々に整備されていると聞く。これも副産物の一つである(なお、一定の期間実施した後 の見直しでは、量刑判断については裁判員の意見は参考意見にとどめ裁判官が判断する方が良いのではないか、という点が重要な論点になろう)。
「一人の人間を殺すことになる死刑判決に関わりたくない」ー結構だ。大いに議論していただきたい。この論議は、必ずそもそも死刑制度は正しいのか、とい う議論につながる必然性を秘めている。また、死刑判決について、単純多数決で良いのかという議論も出てこよう(私は、死刑判決については、事実認定につい ては、単純多数決ではなく、特別多数決によるべきだと考えている)。裁判官が下すことは良いが、裁判員が下すことはダメという考え方に問題はないのか。
今後、こうした論議も含め、刑事裁判の在り方についての国民的論議がさら広がることを期待している。

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