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事務所だより

西野喜一「裁判員制度の正体を読む」6 豆電球No.56

2008年5月22日

西野喜一「裁判員制度の正体を読む」6

裁判員制度は、「司法への国民参加の強化」、「司法の国民的基盤の確立」をめざす、画期的な制度改革である。
なぜ、司法の国民的基盤の強化のために国民参加が必要なのか。
実は、この点が十分、理解されていないところに議論の混迷の要因がある。法律家の間でさえ、共有されていない。進歩的弁護士集団と言われる自由法曹団でも事情はそれほど異ならない。
西野喜一さんの本を読んでいても、果たして、このことを真剣に考えているのだろうか、疑問を抱かざるを得ない。誠実な職人的気質なのかもしれないが、余 りにも視野が狭い。裁判官室から出て、もって幅広い視野から刑事裁判、司法のもつ意義を俯瞰して貰いたいと思う。雑誌「世界」6月号で、高山俊吉弁護士と ともに反対派として議論しているが、過去の司法制度改革審議会での最高裁答弁等との矛盾を取り上げて揚げ足取り的な議論をするようなものが多く、がっかり した。

この点について、私なりに考えていることを簡単に述べてみたい。
第1に、司法が国民の基本的人権を左右する極めて重要なインフラであり、その制度の運用を司法官僚だけに委ねておくべきではないからである。
第2に、刑事裁判は、検察権力、訴追権力に対するチェック機能を果たすという極めて重要な役割を担う。少し専門的になるが(従って、多少不正確な要約に なることをご容赦いただきたい)、刑事訴訟法学の重要な論点の一つとして「審判の対象は何か」という議論がある。検察官が訴状に記載した公訴事実(訴因と いう)が審判の対象であると考える立場と、実体としての犯罪事実が審判の対象であるとする立場がある(私が25年前に勉強していた当時の議論なので、最近 は変わっているかもしれない)。前者は、平野龍一教授が主張したものであり、裁判官は、中立公平な立場から、検察官の主張(訴因)の有無をアンパイヤーと して判断するという考え方にたつものであり、訴追権力としての検察官に対するチェック機能を重視する立場である。これが正しい立場だと私は考えてきた。
ちなみに、後者の立場は、裁判官が積極的に犯罪事実を見つけだして裁くという考え方になる。
このように刑事裁判は、刑罰権力の一翼を担いつつも、検察という訴追権力ー社会秩序の維持と国民の清明安全の保護という立場から犯罪者を訴追し、糾弾す る権力、に対するチェック機能を期待されているのであり、この機能を官僚的な職業裁判官だけに委ねることは、とりわけ危険なのである。
第3に、司法の国民参加は、「上に弱い」司法、すなわち最高裁判所を頂点とする官僚機構の中で最高裁の司法統制を受けやすいという司法の弱点を克服して、「下=国民に支えられた」司法、官僚的統制に対し国民の目線で対峙できる司法を構築することにつながる。
裁判官は、実は孤独なのである。裁判所という役所の中で、自分の処遇も気になるし、同僚の出世も気になる。好きな店に酒を飲みに行くことも遠慮がちである。良心に基づき
思い切った判決を出したいと思っても、心細いのである。先日、名古屋高裁が自衛隊のイラク派遣を違憲とする判決を出した。裁判官としての理性的良心を発揮 した画期的な判断だと思う。こういう立派な判決を出した裁判官は、もっともっと国民が感謝し、誉めてあげなくてはならない。弁護士は勝訴報告集会で拍手を 浴びるが、裁判官はそういう機会がない。裁判官が、自分は国民の代表として、国民に支えられながら仕事をしているんだ、上からの不当な圧力に屈してなるも のか!という気風というか、状況を作り出す必要がある。そのためには、まず、何よりも、国民が司法のことを身近に考え、司法の中に入っていくことが必要な のである。
司法の国民参加が必要だとしても、なぜ、裁判員制度なのか。この点についても、次のような疑問が出されている。どれももっともな疑問だ。
「公害訴訟、薬害訴訟、消費者訴訟や労働事件、行政訴訟等にこそ国民参加が求められているのではないか、なぜ、刑事裁判なのか」、あるいは「刑事裁判へ の参加はわかるとして、何故重大な事件なのか。血がドバッと出る残酷なシーンは見たくない!窃盗等の簡単な事件から制度を導入する方が安全ではないか?
こうした疑問を抱くことは自然のことだ。いろいろ議論はあって良いのである。
前者について言えば、そうした類型の訴訟で問われる論点は、専門的、科学的な知識が必要となったり、審理には相応の時間を要すことが多く、膨大な書面を 読み込んで理解したりすることは避けられない。労働事件では、労働問題の有識者2名が裁判官とともに判断する労働審判が導入されたが、他の類型の事件で も、こうした国民参加の形態はあっても良いだろう。参審制も考えてもよいかもしれない。これに対し、刑事事件というものは、その基本的争点は、過去の一定 の日時に、一定の場所で、甲さんが乙さんを刺したのかどうか、その動機は何かといった事実認定であり、日常生活の中で培われた経験則や常識に従い、判断す るというものであり、無作為抽出による裁判員制度のようなパターンの国民参加制度には刑事裁判の方が向いていることは事実である。
なお、行政訴訟等への国民参加の道を開く上でも、今回の裁判員制度の導入を成功させることが、その重要な契機となることは言うまでもない。
後者について言えば、特に女性の方に多い意見だ(我が家でも同様です))。弁護人も心理的にしんどい。万引きや詐欺など、軽い事件なら心理的負担が少な いのになんで?高い給料を払っている裁判官の仕事でしょ、と言いたくなるのが、人情だろう。しかし、もし窃盗や万引き、覚醒剤所持等の比較的軽い事件から 裁判員制度を導入すれば、膨大な事件数になり、また「そんな軽い事件の判断のために、あくせく働いている国民が、たかだか1万円の日当で出かける必要があ るのか。国民の負担を考えろ!」という非難が囂々と沸きあがったことであろう。
新しい制度を導入するというのは、いろんなことを考えなければいけないのである。
第4に、司法への国民参加は、たんに司法制度の民主化を通じて、日本社会の大本からの変革への芽を含むものである。憲法は、あらゆる権力は、その権威は 国民に由来し、国民の代表者が行使し、その福利は国民が享受すると高らかにうたっている。しかし、憲法に詠われていることと、それが社会の実態になってい ることとは全く異なる次元の問題である。本当に主権者が主権者としての実質を備えていくためには、様々な制度改革と同時に教育あるいは訓練が必要である。 もって言えば、人間は実践を通じて物事の認識を深めることができるのであって、単に観察者として眺めているだけではダメである。裁判は公開されており傍聴 は自由であるとか、メディアで必要な情報が公開されているからいいんだという意見もあるが、観客席では所詮、人間は問題を切実に考えないのであり、問題に 当事者として直面し、手続に参加することによって、真剣に考えるようになる。選挙も然りであり、国民が投票行動を通じて政治が変えられるんだと実感しなけ れば、政治にも関心が持てず、政治は堕落していく。
裁判員制度の導入は、国民が、本当に統治の主体としての自覚を深め、真の主権者として成長していくことに資することを期待しているのである。

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