文字サイズ 標準拡大

事務所だより

雲仙長崎での自由法曹団全国総会 豆電球No.97

2009年10月27日

雲仙長崎での自由法曹団全国総会

【古希団員のあいさつ】
10月24日長崎雲仙で開催された自由法曹団全国総会に参加した。自由法曹団は、1921年に警察権力の労働運動や小作争議に対する弾圧を受けたる民衆の権利の擁護のために結成された弁護士の集団であり、現在の団員数は1892名。
全体総会では、長崎県弁護士会の会長が来賓挨拶と古希団員の表彰が印象に残る。
県弁護士会会長は、6年前には長崎県には5カ所のゼロ地域があったが(ゼロ地域=裁判所支部の管轄地域内に弁護士が一人もいない地域。五島、壱岐、対馬、平戸、島原外)、ひまわり基金法律事務所が次々と開設され、今ではゼロ地域がなくなったという。日弁連の努力と司法制度改革が結びついた重要な変化である。もちろん、弁護士が一人だけでは、国民のニーズに応えたとは言えない(裁判は、双方当事者に代理人がつく必要がある)。引き続く努力が求められている。
古希団員は、70歳を迎え、弁護士活動40数年というベテラン団員を表彰し、挨拶を受けるというもので、総会の恒例行事だ。
表彰者の挨拶を聞いていると、共通して、幼児期に戦争体験、青春期を過ごした60年安保のなかで大きな影響を受け、平和に対する強い熱情、希求を持ち続けてきている。また、弁護士がまだまだ少なく、県庁所在地にすら、市民の権利を擁護する人権派弁護士がいない時代であり、弁護士登録後、要請に応えて地域に派遣され、各地に法律事務所を開設し、その後の自由法曹団の礎を築いた世代であることを理解する。
60年代から70年代、この世代の団員の取り組んだたたかいの大きな比重を占めているのは、警察権力の弾圧とのたたかいであり、また大独占企業の反共労務政策によって労働組合が労使協調路線に大きく舵をきっていく時代の労働事件の取り組みである。ストライキに対して企業がロックアウトで対抗し組合員を職場から排除した山口放送事件において、ピケの最前列に警察官がずらっと並ぶ姿を前に権力とは何かを学んだという団員の感想もあった。

【分散会、全体会での討議】
全体総会の後は、分散会と全体会の討論である。私は、トヨタの膝元で派遣労働者などの非正規雇用労働者に対する大量解雇の嵐が吹き荒れる愛知支部の取り組み、とりわけ私が弁護団員として参加する三菱電機派遣切り訴訟の現状について報告した。
貧困問題では、賃貸マンションの「追い出し屋」問題(家賃を滞納した賃借人に対し、法的手続きを取らず勝手に荷物を撤去し、鍵を変えてしまう。違法な自力執行である)、生活保護申請に弁護士が立ち会う取り組み、ボランティア等と一緒に反貧困ネットワークを立ち上げ活動している取り組み等が報告された。
裁判員制度や法曹人口問題、普天間基地移設、沖縄辺野古の新基地建設問題等について活発な論議があった。裁判員裁判では、迅速な審理を重視する余り、弁護側の立証を厳しく制限する傾向の問題点、自白事件では量刑判断について審理が感情に流される危険性が指摘されるとともに、事件の「個性」を十分見ず、量刑相場に従って処理しがちな司法官に比べ、市民裁判員は一度切りの裁判であり、真剣に事実に向き合い、どのような量刑が妥当なのかを考える傾向があるという指摘もあった。重要な問題であり、今後の実践の中で更に議論が深められていくと思われる。
法曹人口問題では、弁護士の就職難を指摘し、大量増員の弊害を言う意見が比較的多かった。特に若手に危機感がある。言いたいことはわかるし、日弁連として採用先の法律事務所の確保等に努力すべきことは当然だが、未だに管轄地域内に弁護士が一人しかいない「ワン地域」は沢山、残されている。弁護士が未だに敷居が高すぎで市民の足が向かないという問題も有る。お金がなくて弁護士を頼めない人のための法律扶助制度の一層の拡充とともに、弁護士が、さらに需要を掘り起こす努力をすべきだと思う。
辺野古への基地移設の問題では、おりから民主党の岡田外相が、県内移設やむなしという発言をした直後であり、沖縄の団員から県内移設は絶対認めないという沖縄県民の意思は明白だという発言があった。

【歴史をつくる自由法曹団の取り組みの中に身を置いて】
久しぶりに全体総会に参加し、歴史の大局に立って物事を見る大切さを改めて感じた。
戦後の平和運動、労働運動、警察権力の弾圧に反対するたたかい、公害訴訟、諫早の埋め立てに反対する裁判等無駄な公共事業等を差し止める裁判、社会保障の充実を求め貧困を根絶するためのたたかい等々。いずれも分野でも、自由法曹団員が各地域で頑張ってきた。
歴史を動かすのは、私たち国民である。先の総選挙では、永久に続くのではないかとすら考えられた自民党政権が国民の広範な政治参加により退場し、鳩山政権のもとで、労働者派遣法の抜本改正等、様々な国民の要求を実現させる可能性が大きく広がった。これは、自動的に開かれた地平ではない。変化は、永田町から起こるのではなく、永田町に対する国民の様々なベクトルこそ、変化の源である。社会を前に進める国民のベクトルを促進するところにこそ、弁護士としての冥利もあるというべきだ。歴史の大局にたって自分を見つめる必要性を改めて感じさせた二日間であった。

このページの先頭へ